落葉抄 -序-

庭の落葉をかき集める様に、今、私は幼い日の思い出をかき集める。幼い私を育んでくれた人達の思い出が、後から後から浮かんでくる。その一人一人が注いでくれたいつくしみの中で、私は成長して来た。その人達は誰一人もう地上にはいない。
落葉はかさかさと空しい音を立てる。落葉は二度と元の梢にはもどれない。遠い春の日に中天高く花を咲かせ、緑の風をほこったわくら葉よ。今私は思い出の落葉を一枚一枚かき集める。

1) 黒板塀の家-1

私の幼い日の記憶は、東京赤坂表町の家から始まる。その家は黒い板塀に囲まれた家だった。日露の大戦の終わった年、明治三十八年秋、私はこの家で生まれた。
青山御所の御門の前を乃木坂に向かう、通りに面した大きな門を入ると、広い馬車廻しの広場があって真ん中に八つ手か何かの植え込みがあった。雪の朝ここで姉や兄と大きな雪だるまを作ったり、夏の夕方、ボール投げや鬼ごっこ等をして、夕闇が濃くなると目の前をさっと蝙蝠が飛んだりした。

大玄関と内玄関の間に書生部屋の檽子窓があって、内玄関の横には棟を離れてお長屋と云った奉公人の住居があった。ここまでは私の幼い記憶にあるが、家の間取り等はおぼろげにしか思い出せない。

此の家で祖母と母と次姉直子と、後は奉公人七、八人との生活だった。中庭をはさんだ奥の部屋に祖母が居て、いつもお八つをもらった。此の祖母が、青山墓地に「正二位勲一等伯爵後藤象二郎」の墓に並んで「象二郎室雪子」とある。お墓の主である。

おかしな事に、もう一つ「象二郎室磯子」と云うお墓が立っている。「これは土佐のお祖母様」と聞かされていて、お祖父様はえらい方だから土佐にも東京にも奥様があったのかな、と長い事思っていた。
後になって、土佐の祖母は父と岩崎の伯母との生母で早くに亡くなられその後に来られたのがこの雪子祖母と教えられた。

祖父が亡くなって七、八年、この頃祖母は髪を切り下げにして何時もお被布を着ていた。身の大きな人で、すぐ近くに住む長姉静節姉の長男豊太郎が、この祖母を「大きいお祖母様」、身の小さい母の事を「小さいお祖母様」と呼んだ。
この子は大の腕白者で、悪さをして叱られると「デカババア」「チコババア」とわめいて我が家へ逃げ帰る。今度は自分の家で叱られて、母なる姉に横だきにされて来て、倉に入れられる。倉に入れて姉はさっさと帰ってしまう。後で泣きわめくこの子を母は倉から出して、機嫌を取ったり、手足を洗ってやったりして姉の家まで送っていく。こんな事が度々あった。

この静節姉は父が若い時、外に出来た子で祖母が手元に引き取って育てた。母は此の娘が十一の時に、父の元に来た。
私は大きくなるまでこの事を知らずにいた。本当の姉だと思う程この家に
来ていた。豊太郎は私より一才年上で、祖母も母も豊坊と可愛がって、
母はいつも私と一緒にお風呂へ入れたり、ご飯を食べさせたり、平塚の
別荘へは夏休みの間中来ていた。

2) 黒板塀の家-2

この赤坂の家での思い出は、門の前を乃木大将が通られた事だった。庭で遊んでいても、馬上の大将の帽子の先がチラッと塀の上に見えると目の早い豊坊が
「乃木大将だ」
とさけんで門の前にかけ出す。私も後からついてかけ出す。丁度、門の前にさしかかる大将に、豊坊がサッと右手を上げて敬礼をする。私もまねをする。大将はニコッと手を上げて答礼して下さる。白いお髭が印象に残る。私達は嬉しくて
「乃木大将に敬礼したよ」
とふれ廻る。祖母は
「よかったね」 と頭をなでてくれる。

何年か後、父も祖母も亡くなってから、静節姉の生母の消息がわかった。母が
「静ちゃん、あなたを生んだ人の消息が分かったと知らせてくれた人があったが、会ってあげたらどう。私にはちっとも気がねはいらないから」
と言った。姉は突然の事だったので、しばらくぼんやり母のの顔を見つめていたが、考え考え言った。
「お母様、私、別に会いたいと思いませんわ、会ったって何を話したらいいか分からないし、何も話す事もありませんし」
母は「そんなものかな」と不思議な思いで此の娘を見た。
縁うすくして生みの母とは物心つかぬうちに別れ、十一の時から母ならぬ人を母と呼び、娘と呼ばれ、此の義理ある母と子が義理ある世界で睦み合い、いつくしみ合って来た。それで良いのだと娘は言う。
「そんなものかな」母はもう一度思った。

この姉は三輪家に嫁ぎ、一男二女を残して母より先に四十四才で世を去った。私の二十二才の秋だった。 字の上手なきれいな人で、美しく着物を着た姿は、千代紙で作る姉様人形の様だった。祖父の在世中、逓信、農商務、各大臣を歴任の折、高輪の邸に明治天皇皇后の行幸啓を賜った。この姉は八、九才で、御前で琴を弾いて御興を添えた。生涯琴が好きで、家で静かに一人琴を弾いていた姉を思い出す。

3) 向島の家-1

私には長姉静節。次姉直子、そして三人の兄があった。
この頃兄達は千駄ヶ谷の家に、家庭教師の塚崎先生、書生の稲光、三角さん(この人は後の文筆家三角寛氏)それに爺やとで暮らしていた。ここから四谷の学習院の初等科に通っていた。土曜、日曜と家に帰って過ごす他は此の家に居なかった。父も此の家には居ない。父は方々に別宅があって、そのどこかで暮らしていた。

幼い私は父の顔を知らなかった。ある日親類の誰かが訪れて来て、
「孝ちゃん、お祖母様はお家?」 と聞かれて
「さっき、よその小父様とお馬車で、お祖母様もお母様もお出かけになったの」と言った。その小父様とは父の事だった。後で婆やから祖母がこの話しを聞いて皆で笑った。そして此の話しが何ともおかしな、あわれな話しとして親類中に伝わった。それかあらぬか、その年の暮れに、其の頃未だめずらしかった洋服の一揃えが父から届いた。
下着から靴、帽子まで揃っていた。生地は何か分からぬがクリーム色で衿にも袖にもヒラヒラが付いていて、私はすっかり気に入って「お父様からいただいたのね」 と言ってどこへ行くにも着ていった。

4) 向島の家-2

私は父の向島の別宅へは何回か行った記憶がある。何か珍しい到来物があったりすると祖母は必ず、
「猛さんの処へ半分届ける様に」
と言って、母が持って行く時もあり、時には私が婆や書生に連れられて向島の家に行った。甲州からの葡萄であったり、京都の松茸だったりした。

私は花模様友禅の着物に赤いポックリをはいて、いそいそと黒板塀の家を出る。向島へはポンポン蒸気に乗る。一銭蒸気とも言ったから一銭で乗れたのかも知れない。

昔の隅田川は水もきれいで両側の景色もよかった。お蔵のある家や、簾のかかったお座敷やきれいなお庭などが見えた。船着場のそばでは小さなお魚が干してあったりした。いくつも橋の下をくぐって向島に着く。別宅にはいつも父は留守で、おつるさんと言う小母さんがいる。このきれいな小母さんは私の事を「嬢さま、嬢さま」と呼ぶ。家では「孝ちゃん」、奉公人たちからは「孝さま 」といつも呼ばれていたので、何だか大人になった様ですましてみたくなる。

「さあさあ嬢さま、こちらにお通り遊ばして」
おつるさんは私を大人のお客様がいらした時の様に、きれいなお座敷に通す。お茶やお菓子を運んできた女中が、
「まあ、お行儀のおよろしい」なんて言うと余計すましてみせる。

やがて黒塗りの足の付いたお膳が出る。おつるさんはお盆を持ってお給仕をしてくれる。私は床の間の前にチンと大きなお座布団に座って御飯を食べる。コロコロお豆がころがる。「おやおや」おつるさんがおどけて拾う、そして二人でケラケラ笑う。何とも楽しい。
やがてお菓子か絵本か、何かお土産をもらって、
「嬢さま又いらして下さいましね。お祖母様にもお母様にもおよろしく」
船着場まで送ってきたおつるさんの白い顔と大きなひさし髪の見えなくなるまで手をふる。そして又来たいものだと思う。

父は向島のお家に居て、其の家にはおつるさんと言うきれいな小母さんが居る。その事について何の疑問も持たなかった。

ポンポン蒸気の中ではいろんな物を売りに来る。たたみ方でパタパタ絵の変わる写真や、針金の足がプルンプルンと動く蜘蛛や蛸のおもちゃを口上面白く売る。
一度蜘蛛のおもちゃを買ってもらって帰ってえらく祖母に叱られた。
「お祖母様は蜘蛛が何よりお嫌いだから、これからは決して買ってきてはいけませんよ」と母に言われた。
買ってきた蜘蛛は祖母に内緒でおもちゃ箱の底にいつまでもあった。五歳の童女の思い出は祖母の憂いも、母の嘆きも知らず、ただバラ色の花園に遊ぶ日々であった。



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